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私は4年1ヶ月の軍務を終わって18年9月、名古屋の原隊に帰隊した。同月末日召集を解除された。翌日元の職場、刈谷のM豊田自動織機製作へ帰還の挨拶をして職場復帰をした。職場は召集前と同じ兵器納入係である。毎日三栄組のトラックに銃剣や手榴弾の弾体等各種類のものを積んで、毎日トラックに便乗して熱田工廠、高蔵工廠へ、時には鳥居松工廠へも納品した。この年の師走の或る日、部長と2人で石田総支配人に呼ばれた。内容は秘密に行動して、トラック5台を大至急入手せよと一枚の借用証を示された。トヨタ自動車から5台借りて来いという事だが、石田さんは“入手する為の手段方法はまかせる。後日問題が起きても石田が全責任を負う”と言う。早速翌日トヨタ自動車の豊田栄二工場長にお目にかかり、石田さんからの借用証を示したが、豊田さんは今当社で製造している車は全部陸軍省へ納入するもので、民間へは1台も出しておりませんとの事で借用証を押し返された。その後数回お願いに上がったが駄目だった。私は部長にこれからの事は自分が単独でやりますからと告げて、19年の2月頃、5台を入手した。ここで入手方法は書けない。刈谷車体で儀装し、木炭用の装置をつけて走るようにした。無籍の車だが、会社が陸軍の指定工場であったので、星のマークと指定工場番号をナンバープレートにして走った。この事で取調べを受けた事は一度もなかった。会社の輸送力はダントツに向上し、私は係長に昇進し、車5台の責任者となった。毎日緊張の中で20年を迎えた。戦局は長期化し、我々もこれからどうなるのかと悩んだ。8月12日だったと思うが、相模の陸軍工廠へ行って特殊工材を受けて貨車送りせよと指令書を受け、その翌日3台の車を指揮して出発。15日に東京に入り相模工廠から特殊鋼材を受領。日本橋錦糸町の国鉄駅で貨車積みした。駅長が12時に玉音放送がありますからという。12時きっかりに放送が始まったが、雑音が多くて意味は解らなかった。駅の周辺には焼け出された子供達が目をギラギラさせて、又ここは焼死した死体を貨車積みする処で、改めて周囲を見渡して慄然とした。再度工廠へ行って日本が戦争に負けた事を知った。ボンヤリと力なく残りの鋼材を受け取って帰ろうとしたら、“ここには種々な物資があります。いずれ占領軍が接収するでしょう。今なら帳尻を合わせるから”というので、自動車のバッテリー50個と食用の菜種油を50缶もらった。終戦後これも問題になった。私にはなにもなかった。無籍の自動車入手も隠匿物資の事も、上司がうまく処理してくれたようだ。そうして私の夏は終わった。正に国敗れて山河ありの感ひとしおであった。
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