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私と早川さんとの出会いは大正14年小学3年の夏休みが終って9月の始業式からである。それ迄私は浜松の祖父母の許で梅田家の初孫として育てられていた。父親が岡崎を永住の地と定め、長男の私を呼び寄せたのである。転校生として3年の男女組に編入されクラスの生徒に紹介された。その時一番前の席にいた小柄な男子生徒が、先生の紹介にしきりと頷いていたのが早川さんである事が後で解かったが、早川さんは浜松に親戚があるときいて親しみが湧いた。同級に従兄弟早川敦雄君がいた。梅園学校から転校してきたとゆう事である。敦ちゃんはスポーツ万能選手で背もずば抜けて高く、特にドッチボールが得意技の一つであった。その点誠ちゃんは対照的にスポーツは不得手のようで、ドッチボールで泥まみれになって一緒に遊んだ記憶がない。何時もキチンとした金ボタンの上着をきて、姿勢正しく何んとなく他の生徒とは異なっていた。登下校に於いても何時も一人で姿勢正しく、それだけに我々悪餓鬼共には標的にされた。お互い大声で囃し立てワイワイガヤガヤ、それも早川橋の袂迄で、そこには前掛をかけた若者が私共を睨みつけているが、手は出さなかった。私は3年4年と誠介くんと同級だったが、5年6年と男子組になり、2年間は男子1クラス、女子1クラス、男女組1クラスでこの組は進学組のようで、誠ちゃんとも疎遠になってしまった。
再び早川さんと親しくなったのは、私が岡崎ロータリークラブへ入会させて頂いた時からである。「やあー梅田君」と手を振り合って再会を祝った。今でも私の頭の中に故石原辰太郎(20代会長)が早川久右ヱ門さんを観察した言葉が鮮明に残っている。「梅田君、我々は大変なムダ遣いをしているゾ。たとへば早川さんを見よ。早川さんはゴルフが終わって風呂に入って出てから体を洗う時に、蛇口の湯を決して出しっ放しにしない。我々は湯を出しっぱなしで頭や体を洗う。家庭の湯殿ではそんな贅沢はしないが、早川さんは必要なだけの湯を桶にとって、それを繰り返し、出しっぱなしの無駄湯をしない。大きな身代を支へて行くには、自ら自戒して周囲に範を示さなければ大きな身代は守れん。」と改めて早川さんの行動を観察して教へられる事が多かった。晩年は連尺小学校同窓会長を務め、連尺小学校100周年・110周年と活躍、又城北中学校の初代PTA会長も務められた。平成6年に私が叙勲を受けた時も、式典の最後のしめくくりをしてくれたのも、久右ヱ門さんである。種々なことが頭の中でグルグル回っているだけで、追悼の言葉にならない。幼き頃の誠介くんと早川久右ヱ門さんに追悼の言葉としたい。
合 掌
亡き父存命中は公私にわたりご厚情を賜り誠に有難うございました。残された家族一同、皆様に頂いたご恩を胸に、精一杯生きて行きたいと存じます。今後とも変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。
(早川純次)
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